素人専門家

もう一度、映画のことを書いてみます。

c0021551_1943846.jpg

(ポスターをクリックしてください。映画のサイトに飛びます)

じつはこの映画で流した私の涙、
話の筋には全く関係ないところに感動していたかもしれません。
しかし、作者なのか、長野県の人なのか、誰の意図なのか不明ですが、
それも意図だったのは間違いありません。

たとえば、冒頭で大木を切り倒す、木こりが出てきます。
斧で時間をかけて切り倒していることが示唆されます。
まずこんな大きな木の存在に感動するし、
映画のためにそれを切ってしまうことにも驚きます。
しかし、その切り倒す木にはしめ縄がかけられ、
(かつてそうしていたであろう様に)
切り倒す前に神に祈りを捧げたことが想像されますし、
しかも、カメラを引くと、その木は二股の木であって
切っても主幹は残り、切られた方は切ってよいのだということがわかります。
つまりやはりかつてそうであっただろう
やたら切っていたわけではないのです。

昭和10年、人間は鉄を手にしてはや何百年、
しかし、まだ非力な人間は大自然と自分の力で格闘していたのです。
自然に感謝を捧げつつ。
この木こりは実はプロの木こりではなく、木地師。
水車の力を利用してろくろを回し、椀、鉢などを作る人です。
(信州で蕎麦打ち鉢をよく見たことを思い出しました)

百姓という言葉は、農民と同義語ではなく、
百の仕事をする人、というような意味だそうです。
農業をする傍ら、実に様々な作業、副業をしていました。
その中でも、ある程度専門作業に従事する人もいました。
この木地師は木を削って形にするのが仕事ですが、
山を歩き、必要な木の種類を見分け、不要な株を見分け、
時期が来れば、神に祈り、自分の力で木を倒していたのでしょう。

日本中多くの土地で今でも地歌舞伎が行われていることを
私が知ったのは最近です。
地歌舞伎は土地の人が自分の職業以外で
自分の得意または自分に定められた役割を分担し、維持されています。
(この映画では木地師はどうやら、代々、裏方専門だったようですが、
主人公は木地師の生まれなのに役者がやりたくなったようです)

私がこの項で書きたかったのは
専門でない人が人間力でいろんな仕事をすることのすばらしさ。

この映画にとっての話の筋は
実は何百年もの伝統のある地歌舞伎が
土地に根付いた物であることを見てもらうための口実であって、
実はその成り立ち、つまり、素人の集団である、
役者も、裏方も、観客も、重要な構成要因であること。
まずはそれがとても言いたかった様な気がします。

初めの方で神社の境内で歌舞伎が奉納されますが、
あまり大きくない映画のスクリーンの前の方で見ていた私は
自分が実際にその神社の観客になったような気分で
歌舞伎芝居を観ていました。
そして、それは観光客として行って見たのでは
決して味わえない一体感でした。

私は、以前からお金を出せば済むようなことも、
色々自分の手でやってみたいと思って試してきました。
生まれた時から、上下水道ガス電気のそろった環境のなかで
なんとはなしに、人間力に不安があったのかもしれません。

私の涙の一つは到達できないあこがれが目の前に出現したからかもしれません。
映画という作り物ではあっても、
現実に存在する伊那谷の自然や風景、そして地歌舞伎も本物だからです。
(映画の役者は歌舞伎役者だから言わば偽物ですが・・・・)
[PR]
by yamamotoyk | 2009-03-15 23:13 | 外出 | Comments(2)
Commented by ゆん at 2009-03-17 12:40 x
こんにちは!
うまこさんのお住まいならば、伊那谷は近いですね。私、実は、かつて伊那谷に住みたいという野望を持っていたんです!大鹿村や喬木村あたりに…と。空の色も空気の色も人もとても強いところでした。
 諏訪大社以外の「御柱祭」もせつなくて素晴らしいです。
Commented by yamamotoyk at 2009-03-17 23:27
はい、ゆんさんありがとうございます。
伊那谷は名古屋からは近いという印象があったので、
こんなに自然が豊かなところとは知りませんでした。
生来の街っ子はただただ大自然に対して
尻込みするばかりです。
行けたとしてもただの観光者にしかすぎません。
傍観するしかないので、せつない気持ちになるのですね、多分。
<< 影猫 庭作業 >>