時雨西行

三味線のお稽古では、万博デビューの練習のために、
本来のお稽古曲はちょっとお休み状態です。
幸いにして、8月までに時雨西行の比較的易しい前半が終わり、
いよいよ後半の難しいところにさしかかり、よほど練習しないと・・・・
と言うところだったので、この足踏み状態はありがたいのです。

さて、前半は西行が時雨に遭い宿を借りようとすると、
家の主の遊女がそれを断るので、
歌でもって、つれないことよと言うと、歌を返しそれならばと招き入れ、
身の上話をしあう、という所までなんですが、
西行の歌の意味が今ひとつわからなくて、西行に関して本を2冊読みました。

一冊は白州正子氏の物、もう一冊はドイツ文学者の物。
白州氏は西行の訪れた地を実際に歩き、
西行の歌の意味を考えた作品。
もう一冊は学者らしく、西行の歌を分類し、分析したもの。
しかしいずれの本も、
西行の歌のなかで、世を捨てるのが難しいのは遊女の方、という解釈である。
というかあまりこの歌の意味については考察していないのです。

さて、ここで気をつけなければならないと思ったのは、
この長唄は確かに西行と遊女の話であり、
2首の歌は実際に西行と江口の遊女妙の作ではあるが、
内容は江戸末期の長唄作家の物であると言うことである。
しかも、遊女が普賢菩薩に変身するという話は
西行とは別にそういう話があるということだし、
能の江口では遊女の霊と話をするのは西行ではない僧である。

つまり長唄作家がそれまでのお話を元に作ったお話で、
江戸時代の庶民のための娯楽作品であるのです。

さて、話は変わり、今日の朝日新聞夕刊、惜別という追悼文のコラムに
杉浦日向子氏が載っていた。
その文の中で日向子氏が江戸に惹かれるのは
生老病苦を春夏秋冬のように受け止め、楽に生き楽に死んでいく世界観、
であると語った、と書いてあるのですが、
時雨西行はまさにその世界観を語る物と思うのです。
江口の遊女が西行に、自分の栄枯盛衰を嘆くが、
それは自分がそれにこだわっているから、悩むのだと言う。
そして西行がその考えに感銘を受ける、というもの。

栄枯盛衰、世の無常は昔から語られるが、
それに執着し、こだわるところに煩悩が生まれる、
と、江戸の作家が、一般大衆向けの娯楽のなかで語る。なんだかすごい。

最初の歌の意味はともかく、お話の中では
世を捨てるのが難しいのは西行自身だと、
お江戸の人は考えていたと、ますますもって思うようになりました。
お江戸の人は西行が世を捨てようと格闘した先達であると思ったかもしれない。

しかし、現代はこの観点からすると、
江戸時代とは全く逆で、とにかく執着することがもっとも大切であると説く。
日向子氏の生きること、死ぬことが楽ではないという、感想に同感です。
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by yamamotoyk | 2005-09-05 23:38 | 三味線 | Comments(2)
Commented by うらら at 2005-09-06 21:05 x
わー!!うまこさんも「時雨西行」ですか。
ひょいと覗いたらそう書かれているので、つい嬉しくて。私も今篠笛でやっている曲です。
以前西行には関心を持って、何冊も本を読んだり庵を訪ねてみたことがあります。

「時雨西行」については先生からの説明や「長唄名曲要説」で多少はわかっていましたが、うまこさんのブログでより。
杉浦日向子氏のコラムの件も興味深く読ませていただきました。
これでより奥のある音色が出ればいいのですが…。(^^ゞ
Commented by yamamotoyk at 2005-09-07 11:01
うららさんも時雨西行でしたか♪
合奏できますね!
ただし難しいところ(どろどろそろ・・ぴか!の菩薩登場の所)
は抜きで(^▽^笑)。ここがいい所だけど、ぴかっ!ができない・・・
篠笛が入るとぐっと良くなるでしょうね(三味線のあら隠しにもなるし・・・)
三味線は唄いながら弾けるので、
すっかりお芝居気取りで練習しています。
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